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LINE査定三密堂書店の創業者・森下政治郎は滋賀県蒲生郡朝日野村にて、父、森下安右衛門、母、いその次男として明治27年12月7日に生まれた。兄の寛治郎が家を継いだため、政治郎は京都の書籍商、山城屋藤井文政堂へと丁稚奉公に出ることになる。文政堂は京都の老舗書籍商であり、主に仏書や易学書を取り扱っていた。文政堂からは、のちに三密堂書店から仏教書を出版することになる種智院大学教授、服部如実氏や、大正大学教授、高神覚昇氏がいくつかの本を出版しており、政治郎はここで、書籍商としてのノウハウと人脈を築いていったのである。文政堂で経験を積んだ政治郎は、文政堂と同じ寺町通りに三密堂書店を開業した。
三密堂書店の創業年は、はっきりとはしていない。戦後、新聞などの取材に対し、2代目店主である森下正三郎は「大正初期」と答えているが、具体的な年号は定かではない。三密堂書店の創業年を具体的に紹介する書籍はいくつかあり、例えば『京都書肆変遷史』はその創業を大正元年、『全国古本屋地図 二〇〇〇年版』は大正4年とするが、いずれも正三郎の曖昧な記憶にもとづくものである。
さて、実際の史料に「三密堂書店」の名が登場するのは大正13年の『全国書籍商名簿』である。東京書籍商組合の発行するこの名簿は、現在確認されているだけで明治40年、大正3年の版が存在するが、いずれも三密堂書店の名前は掲載されていない。
一方、三密堂書店はこれまでに多数の本を刊行してきたが、確認できる最古の書籍は大正11年の『神道大祓大全』である。これを最初の出版物とするならば、書店自体は大正一桁期からは存在していたであろうと推測できる。これらに加え、正三郎の「大正初期」という証言をふまえれば、創業はおおよそ大正4、5年ごろであろうと言えるのではないだろうか。
屋号の「三密堂」は真言宗大僧上の滝承天(新義真言宗智山派管長、智積院五十一世能化)により考案されたものである。 開業した当初は『神道大祓大全』大正11年、『御詠歌萬題』大正12年、『西国卅三所詠歌』大正12年などの経本出版を主な仕事としていた。大正10年には柳ギンと結婚し、喜代子(大正10)、正也(大正13)、正美(大正15)、美代子(昭和4)、嘉代子(昭和8)、正三郎(昭和10)、佐代子(昭和16)の3男4女を授かった。 経本出版からスタートした三密堂書店は、次第にその業務を拡大していく。『全国書籍業組合員名簿』昭和13年所収の「京都書籍雑誌商組合員」を見ると、三密堂書店は「出版及販売業」に分類されており、昭和期に入っても、販売・出版を広く手がけていたことがわかる。また『古本年鑑 第二年版』昭和9年によると、三密堂書店はこの時期にはすでに古本商もかねていたようだ。ただし、『古本年鑑』の昭和8年版には掲載がなく、増補改訂によって追加されているため、古本商はあくまで副次的な業務であり、前述の出版・販売業が中心であると考えられる。
商売は順風満帆だったが、日本に戦争の暗い影が忍び寄るとともに、三密堂書店にも暗雲がたちこめる。昭和17年に妻、ギンが病死したのを皮切りに、昭和18年に長男、正也が病死、昭和19年には次男、正美が戦死し、政治郎は相次いで家族を失った。戦時中は、戦況の激化にともなう金属不足のため、「金属類回収令」が制定され、京都でも、寺院の梵鐘や寺町通りのすずらん灯などが回収されていった。三密堂書店の表看板も剥がされそうになったのだが、なんとか死守したという話を二代目、正三郎氏は伝え聞いている。
政治郎は戦争中に蓄えを使い果たし、昭和20年の終戦を迎えるころには、店頭に商品はまったくなくなっていた。それでも商品を集めなければならず、時代の変化に翻弄された三密堂書店は、出版業よりも古書業に重点を置いた営業に変化していくことになる。
戦争中に長男、正也と次男、正美が相次いで亡くなったことで、政治郎の三男であった、のちの二代目店主、森下正三郎が三密堂書店の後継ぎ候補となる。正三郎は、静岡の古書店に丁稚奉公に出されることになり、そこで数年の間、書店を営むための修業として苦労を重ねた。木製のリンゴ箱に書籍を詰め、荒縄で縛る作業を毎日何度も繰り返していたため、手がボロボロになってしまったこともあったという。3代目店主、森下正巳の回想によれば、店主時代の正三郎の梱包はしっかりしており、少々乱暴な配達でも商品が傷むことはほぼなかったそうである。お客様からは、丁寧な梱包についてお礼の言葉をいただくこともあったようだ。
三密堂書店の2代目店主となった正三郎は、父同様多くの仏教研究者と交流を深めていく。特に、帝塚山大学で教授を務めた木南卓一氏は『慈雲尊者 生涯とその言葉』昭和36年を筆頭に、9点の著書を三密堂書店から出版した。また、大学堂書店(京都)との共同出版であった修験聖典編纂会編『修験聖典』昭和43年、それに関連する中條眞善『修験大要』昭和45年、服部如実『修験道要典』昭和47年など修験道関係の書籍を出版したほか、金華山人『鎮宅霊符神感応秘密修法』昭和45年、松本俊彰『梵字入門基礎編』『梵字入門応用編』昭和51年など仏教以外にも様々な分野の本を出版していく。また、政治郎時代に出版された易学書は坂本文利氏の著書2点のみであったが、正三郎は籔田曜山氏、嶋謙州氏、橋本晴州氏、小林泰明氏など多くの易学者と交友の輪を広げ、易学の古典、入門から実用的なものまで数多くの関連書籍を出版した。「仏教と易」という三密堂書店の礎が築かれたのは、この正三郎の時代であった。
昭和30年代に入ると、父の政治郎は中断していた出版業を再開する。この時期の三密堂書店では、徳田光圓『蓮月尼乃新研究』昭和33年、服部如実『表白・諷誦・願文・集』昭和34年、坂井栄信編『梵字悉曇習字帖』昭和34年、坂本文利『秘開病筮易』昭和34年など経本以外の出版物もてがけるようになっていた。戦争や家族の不幸などに見舞われ、死者を弔うための経本や経典で商売をするのを政治郎がためらったためであった。 このころ、政治郎は龍谷大学教授、真鍋広済氏に何か一冊、本を出版してほしいと依頼をした。それに対して真鍋氏は、自分が長い年月をかけて蒐集した地蔵の写真や資料を一冊にまとめ出版することを承諾した。しかし、刊行を前にした昭和35年6月、政治郎は65歳で死去してしまう。正三郎は、三密堂書店とともに父、政次郎の最後の仕事を引き継ぎ、『地蔵菩薩の研究』昭和35年を完成させた。親子二代の思いがこもった同書はその後順調に売れ、度々重版もおこなわれるロングセラーとなった。
昭和37年、正三郎は滋賀県から上京して京都古書組合の事務方に勤めていた前川美代子と結婚し、一男一女を授かる。結婚当時、美代子の父が三密堂書店を訪れた際、棚に書籍がほとんどなく、大丈夫だろうかと心配されたというエピソードもあったようだが、『梵字入門』や『修験道要典』、『鎮宅霊符神』などの出版時には全国各地から注文が相次ぎ、子供の手を借りるほど繁盛していたようである。
最後に、正三郎の人柄がわかるエピソードを紹介しておこう。正三郎は、三密堂書店の出版物を取次店には出さず直扱いで数店の書店へ卸していた。経済的に取次店へ出すのは難しかった面もあったには違いないが、何より「せっかく書店に並べてもらっても、汚れた状態で帰ってくる本は見たくない」というのが正三郎の本心であった。正三郎が本を人一倍大事に扱う人間であったことをうかがわせる話である。
三密堂書店の「出版ブーム」は徐々に熱が冷め、昭和が終わりに近づくにつれ、新たな出版は控えるようになっていく。その代わりに大量の在庫を少しずつ売る形になり、店頭では成人向けの古書を扱うようになっていった。
元号が昭和から平成へと変わるころ、正三郎の長男、森下正巳も家業である三密堂書店の即売会などを手伝うようになっていた。しかし、小さい頃から三密堂書店を継ぐ気持ちは少なく、大学卒業後も趣味の延長であった音楽活動にあけくれるばかりであった。
そんな正巳に転機が訪れたのは、平成7年の阪神・淡路大震災の時であった。ちょうどそのころ、自分には音楽の才能が無いということに気がついた正巳は、フリーターのような状態で、ジュンク堂書店で働いていた。震災が起きたのは、ジュンク堂書店で働き始めてから4年目のことである。震災の被害を受けた三密堂書店の倉庫では、多くの書籍などが倒れたり傷んだりしていた。それを整理しているうちに、自然と父の手伝いをするようになっていったのである
当時の三密堂書店では、仏教書や易学書は隅の方に追いやられて、成年コミックや写真集が所狭しと並ぶ成人向けの古書店になってしまっていた。 平成10年には、店内を改装し少し売り場を広げたものの、まだまだ写真集や雑誌が多く並べられている状態であり、女性客には抵抗があるような売り場であることには変わりがなかった。店頭の商品はどんどん売れなくなり、平成元年に比べ、店頭販売が半分以下にまで落ち込んでしまう。ある程度の売り上げの低下は予測していたものの、これは正巳にとって想定外の大きな衝撃であった。
平成18年、売り上げの下落に直面した正巳は店舗を大改造しようと決心した。1階には天然木のフロアと自動扉を備え、店頭ではモニターで商品を宣伝する方式を採用する。2階には6畳ほどの個展などができるスペースと、和綴じの本の修理や古い本の帙づくりを日課にしていた父・正三郎のための修理部屋をこしらえた。これが現在の三密堂書店の店舗である。
「直した本と会話ができる」――冗談のような父の正三郎の言葉であった。また、「本を売るときは嫁にやるような思い」とも言うような父であった。癌との闘病中、帙の作り方を書いたメモを正巳は託される。本を大切にしてほしいという思いのこもった、正三郎からの伝言であったのだろう。平成19年4月16日、正三郎は72歳で死去。忘れがちな自分の妻、美代子に対する当てつけのように、美代子の誕生日に逝ってしまった。こうして三密堂書店は、3代目店主、正巳に引き継がれた。
文:森岡将宏(文学修士(歴史学) 京都大学日本史研究室)